大変革の時代にふさわしい優雅な生活とは?

 

 

「優雅な生活が最高の復讐である」とは、“最高に愉しませる現代美術の書き手”と評される美術ライター、カルヴィン・トムキンスの著書の日本語版タイトルです。

 1920年代にフランスに暮らして素晴らしいホスピタリティで友人たちをもてなし、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ピカソ、レジェ、コール・ポーターといった芸術家たちと友情を育んだアメリカ人、ジェラルド・マーフィとその妻セーラの人生を、インタビューをもとに伝記のかたちにしたものです。[1]

 「マーフィ夫妻と一緒のときはだれもが最高の自分になれたものさ」と作家のジョン・ドス・パソスが本書で語っていますが、ふたりは“暮らしの芸術の達人”として皆に愛されていました。

 たとえば、パリでディアギレフのバレエ・リュスによるストラビンスキーの『結婚』の初演を祝うパーティを開いたエピソード。
ディアギレフをずっと応援していたふたりは、関係者のため盛大にオープニングを祝おうと、セーヌ河畔のはしけを改造したレストランを借ります。

パーティの日は日曜日で、新鮮な花を買うことができないことに直前に気づいた夫妻は、バザールに出かけていっておもちゃをどっさり―消防車、車、動物、人形、ピエロ―買い込んできて、長いテーブルの上にいくつものピラミッドにして積み上げ、食卓を飾りました。この舞台立てに一番有頂天になったのはピカソだったそうです。

トムキンスはこのパーティをこう締めくくります。「だれひとり酔いつぶれず、だれひとり夜明け前には帰らず、そして、だれひとりこのパーティのことは忘れなかったろう」

あるいは、夫妻がリビエラ海岸(コート・ダジュール)を発見したこと。

今では想像もできませんが、リビエラ海岸のアンチーブ岬は当時、温暖な冬を過ごすための保養地で、暑い夏には誰もいなくなり、ホテルも閉まるような土地でした。

ふたりは静かなビーチを気に入り、夏の間も営業できるよう、小さなホテルの経営者を説得して友人たちを招いてもてなし、やがて別荘を購入、改築して定住するようになります。

夫妻は家族や友人たちと海辺でピクニックをして長い午後を愉しみましたが、それは太陽の光を浴びるためにビーチで過ごすことが一般的ではなかった当時としては画期的なことでした。

 

アンチーブのビーチでのジェラルド&サラ・マーフィ 1923年
Wikimedia Commons
ジェラルドはボーダーシャツを発見して着こなした最初の人だ。
ピカソがこのシャツを着ている有名な写真があるが、
ジェラルドに影響されているのは間違いない

 

トムキンスは、周囲と違うことを怖れず、自分のスタイルで暮らし、友人たちを楽しませることに情熱を傾けた夫妻の幸福な時代を、スナップショットを連ねるように書いていきます。けれど最も感銘をうけるのは、人生における辛い日々にあっても彼らが優雅な暮らしを続けたことです。

 1929年の秋、3人いる子どもの末っ子、パトリックが結核を患いました。すぐさま夫妻はリビエラの家をたたんでスイスのサナトリウムのある村に引っ越し、その後18ヶ月にわたって家族で暮らしました。

その長い試練の間、マーフィ夫妻は自分たちとパトリックの気分を明るく保つために、生活のなかにありとあらゆる楽しい工夫を凝らしました。

病院の近くのシャレー(山荘)を借り切り、自分たちの趣味で飾り付けたり、村のダンスホールを買い取って改装し、ミュンヘンからバンドを呼んで毎週末に演奏してもらったり。多くの友人たちが滞在し、その一人はこう回想しています。

「かれらの人生のなかでパトリックのためのあのたたかいほどみごとなものはない。かれらは最高に生き生きとした、最高にチャーミングな、最高に思い遣りに富んだ人間だというだけではなかったのだ――夢の家の屋根が美しい居間の上に崩れ落ちてきたとき、かれらは最高に勇敢だった」

 マーフィ一家は1933年にアメリカに帰国。35年に上の息子ベイオスが急逝、37年にパトリックを喪っています。

ジェラルドは傾いた家業を引き継ぎ、22年かけてたてなおしました。現在のレザーブランド、マーク・クロス社です。彼の趣味の良さと創造性をいかし、さまざまな商品を加えて利益を生み出していったわけですが、本人は責任感から引き受けただけで、この仕事は性にあってなかったと友人への手紙で述べています。

トムキンスは書いています。「ジェラルド・マーフィがかつて見つけた辛辣なスペインの諺がある。“優雅な生活が最高の復讐である”。ヨーロッパを去った後も、マーフィ夫妻は、いくぶん悪化した環境が許す範囲のなかで、優雅に暮らし続けた」

 最後にどんでん返しが待っています。

ジェラルド・マーフィがパリで絵を習い、アンデパンダン展に出展していたこと、パトリックの発病を機に絵画制作をやめてしまったことはさらりと書かれていますが、最終章で突然、重要な現代の画家としてのジェラルドの功績が15点の作品のそれぞれのエピソードとともに解説されるのです。

1960年にダラス現代美術館のディレクターに再発見されたことがきっかけで、作品の1点がニューヨーク近代美術館に収蔵され、1964年にジェラルドが亡くなったときには、レジェ、ピカソの絵と並んで展示されました。1974年には同館で回顧展が開催されており、彼の絵は死後に大きな評価を得ました。

 「マーフィには、優雅な生活は十分な復讐にはならなかった。かつてかれがある友人に話したところでは、絵を始めるまではかならずしも幸せではなく、絵をやめてからは二度と幸せにはなれなかったのだから」とトムキンスは本書を結んでいます。

 ジェラルドは絵画制作を続けて自分の仕事の完成をめざしていたが、子どもの重病や家業の立て直しなど様々な事情によって断念せざるを得なかった、幸福な期間は絵を描いていた間(1921年から29年まで)だけ、だから完全なる幸せとはいえなかった。絵画制作という、ありのままの自分を解放する創造的な行為に目覚めたものの断念せざるを得なかったけれど、その経験が心に余裕を与え優雅な暮らしを強固なものにしたのはたしかです。

さらには、優雅な生活があったからこそ、晩年に仕事が再評価され、偶然の出会い(トムキンスが幼い娘たちを追いかけて隣家の庭に入ったら、薔薇の剪定をしていたのがジェラルドだった)から評伝が書かれ、百年後の読者を刺激しているのですから、結果的には「十分な復讐」になったのではないでしょうか。

本を閉じながら、彼らの優雅な生活は、苛酷な人生に復讐することができたのだというちょっとした興奮と安堵の入り交じる読後感が長く残ります。

 この本を初めて読んでから20年以上たっていますが、読み返してはマーフィ夫妻の人生や暮らしを想像し、ふたりのように生きるにはどうしたらいいのだろうと考えつづけてきました。

 ふたりが裕福だったのは事実です。しかし「スコットとゼルダ(・フィッツジェラルド夫妻)が膨大な金をつかって貧相に暮らしたのにたいして、マーフィ夫妻はそれよりはるかに少ない金でじつに優雅に暮らしていたのである」と書かれているように、お金があれば優雅に暮らせるという単純なことではなく、どんな人にもその人なりの「優雅な生活」のスタイルがあるのではないでしょうか。英語の原文は「Living well」、つまり善く生きることですから。

 『優雅な生活」という言葉から、わたしたちはつい、豪華なものに囲まれた暮らしをイメージしがちです。でも「善く生きる」暮らし方はさまざまにあるはずで、たとえば江戸時代に描かれたこの絵も「優雅な生活」を描いていると思います。

 

 

久隅守景《納涼図》 2曲1隻 紙本墨画淡彩 江戸時代・17世紀
出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

 

ひょうたん棚の軒下にむしろをしき、その上で夕涼みをする家族。満月の上空は薄暗く、やがて夜の闇が彼らを包みこんでしまうでしょう。しかし、三人のくつろいだ表情から充足感が伝わってきます。

 ありのままであること。ほんとうに必要なものを知ること。利他的であること。知恵を働かせること。心に余地を残すこと。それらを日々学びながら、なんとか優雅に暮らしてみる。苦しいときこそ、そのことを忘れない。そんなふうにして生きる現在が、未来をつくるのでは。

 先の見えない大変革の時代を生きているいま、「優雅な生活が最高の復讐である」とつぶやき、やってみることは私たちの大きな助けになると思います。

 よい材料でつくるアルチザンブレッド。中深煎の香り高いコーヒー。一癖ある視点で編んだアートブック。わたしたちの作るものが、あなたの優雅な生活の一助になることをめざして、カワイイファクトリーは活動しています

 

 

[1]『優雅な生活が最高の復讐である』青山南 訳

【単行本:リブロポート1984年/文庫本:新潮文庫2004年】

文庫版はアメリカで1998年に刊行された新版を訳したもので、トムキンスの「まえがき」が新たに加わり、ジェラルドの絵について論じた最終章がほぼ全面的に書き直され、旧版に収録されなかった写真を加えた決定版。ですので読むのは文庫版がおすすめですが、2020年に逝去された戸田ツトムさんが手がけた単行本の造本装幀も素晴らしいです。